エンジニアが映画評論家になるブログ

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エンジニアをしている普通のサラリーマンが、映画評論家になってどや顔で映画評論するまでの軌跡を綴るブログです

この世にいる人間はすべて「悪」である 映画感想「凶悪」

365日映画カレンダー 9月19日 「凶悪」

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山田孝之は今作を演じるにあたり、自分なりに演技を11段階に分けたそうです

 

今回僕が観た映画はノンフィクションベストセラー小説「凶悪-ある死刑囚の告発-」を原作とした「凶悪」という作品です。1999年に実際にあった事件をモデルにしています。

 

基本的に僕は映画を観るときにあらすじを一切見ないので、タイトルをみたときに凶悪犯たちの狂気を描いた作品なのだろうなと短絡的に予想していましたが、映画を観たあと、その感想は大きく変わりました。

 

今作は凶悪犯のおそろしさを描いただけの作品ではなかったのです。

 

「凶悪」とよばれるものは一体、何か?

実は「凶悪」と呼ぶべきものは僕たちのすぐそばにあるのかもしれない。

今作はそんなことを考えさせられる作品です。

 

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概要

記者である藤井のもとに、東京拘置所に収監中の死刑囚・須藤から手紙が届く。上司から面会を命じられた藤井は須藤に会いにいく。

須藤から聞かされたのは、警察も知らない3件の殺人事件についてと、事件の首謀者である木村という男の存在であった。

自分を裏切った木村を道連れにするために事件のことを記事にしてほしいと頼む須藤の告白に藤井は半信半疑であったが、取材を続けていくうちに須藤が話していることが真実であると確信し事件に没頭してゆく。

 

感想

凶悪犯を演じた2人の役者が最高に最悪

 

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こんな人間がこの世にいると思うだけでぞっとします

まず死刑囚である須藤役のピエール瀧、そして須藤を裏切った事件の首謀者、木村役のリリーフランキーの演技が狂気に満ちていて本当に素晴らしかったですね。

 

役者ってすごいなと思うのは「人を殺したことなんてないはずなのに」人殺しの役を演じることが出来る点です。演じるうえでよく「役に入り込む」っていいますけど、人殺し役になるにはどういうイメージをもって撮影に臨んでいるのだろう。

 

ピエール瀧については今や本物の犯罪者なので納得の演技力といったところなのかもしれませんが、木村を演じたリリーフランキーは、人殺しをまるでゲームのように無邪気に楽しみます。どうして残酷なことをしながらそんなに楽しそうに笑えるのか、映画を観ていて不思議で仕方がありませんでした。

 

「死にたくない」と泣き叫ぶ被害者の表情を見て、満足気に笑うリリーフランキーの演技は相当胸くそ悪かったですね。そういった感情をもってしまった以上、その時点でリリーフランキーの演技に魅せられてしまっているわけですけど。

 

ちなみに今作が公開されるタイミングでリリーフランキーは映画「そして父になる」にも出演していて、彼の演技の振り幅には驚かされます。優しい表情もできるし、残酷な表情もできる。本当のリリーフランキーの表情はどっちなんでしょうかね。

 

ところで幅広い役をこなせることからカメレオン俳優なんて言われている山田孝之は、ピエール瀧リリーフランキーと共演できると知ってこの映画への出演を決心したそうです。山田孝之は相当演技力が高いと思いますが、主人公である彼よりも今作で凶悪な犯罪者を演じる2人の演技はまさに「凶悪」で、今作において異様な存在感を放っていると思います。

 凶悪とは何か

さて、今作のテーマは冒頭でも少し触れましたが「凶悪とは何か?」、もうすこし補足すると、罪として裁かれるようなものだけが凶悪なのか?ということだと思います。

 

須藤と木村がターゲットにしているのは主に老人です。

例えば莫大な借金を抱えている牛場という一家に対し、須藤と木村は「保険金をかければ後は俺たちがおまえたちの父を事故にみせかけて殺してやる」と提案します。すると家族たちは罪悪感を抱きながらも他に借金返済の方法がないため2人の提案を受け入れてしまうんですよね・・・。

 

須藤は被害者を殺す直前に「家族はおまえが死ぬのを望んでいる。俺は家族から依頼されておまえを殺すんだ」と打ち明けるのですが、そのときの被害者の絶望の表情は直視できなかったし、被害者が死んだことで得た保険金で借金を返済し、普通に生活している牛場一家にも恐怖を感じました。

 

自分が生きていくためだったら誰かを平気で犠牲にするという人間の恐ろしさが描写されているシーンだと思います。

しかし、こういった残忍で凶悪な一面は、人間なら誰しもが持ち合わせていると思います。

 

今作の主人公である藤井(山田孝之)は須藤や木村が「悪」として描かれているのに対し、その悪を暴くために取材を続ける「正義」の存在ですが、実は正義なだけではありません。捉えようによっては「悪」とも思える一面が彼にもあるのです。

 

藤井の母は認知症を患っており、その介護を妻である洋子にすべて任せています。罪悪感から自分の母親を老人ホームに預けることを拒否する藤井ですが、母の介護をひとりでこなす洋子は次第に疲弊していきます。事件に没頭する藤井はそんな洋子に対し

 

真実が明らかになれば死んでいった人たちの魂が救われる

 

と自分がやっていることの正しさを証明しようとします。

 

しかし洋子は「死んだ人の魂なんてどうだっていい」、ただ藤井と一緒に普通の生活がしたいと切望します。

さらに洋子は母に手をあげていることを藤井に告白し、「自分はこういうことをするような人間ではないと思っていた」と涙します。最終的に我慢の限界に達した洋子はついには離婚を提案します。

 

「正義」として事件を追う藤井ですが、心の深いところでは事件を追うことを楽しんでいて、妻である洋子の人生をめちゃくちゃにしてしまっていたんですよね。

事件を追うなかで母のこと、妻である洋子のことで悩む藤井ですが、ラストシーンにてついに母を老人ホームに入所させることを決心します。

 

妻と普通の生活をするために自分の母を老人ホームに預けるシーンは、借金返済のために家族の一人を売った牛場一家と重なって、「悪」の定義を考えさせられました。

 

人は自分のために、自分以外の誰かを平気で犠牲にする。

この感情こそが「凶悪」と呼ぶべきものだと思います。

僕たちも気がつかないところで誰を傷つけ、犠牲にしている「悪」と呼ばれる存在なのかもしれません。

この映画を観たことで、もしかしたらこの世に純粋な「正義」と呼べるものなんてないのかもしれない、そんな気分にさせられました。

 

ブログ作成時間:25分